アメリカでの見聞録につづき福沢諭吉がヨーロッパを訪問した際の見聞録の動画が100万再生を超えていました。
諭吉を含む幕府使節団一行は1862年に日本を出発し、香港やカイロを経由しつつフランス→イギリス→オランダ→プロイセン→ロシア→フランス→ポルトガルという経路をたどり帰国しました。
youtubeより引用
以下動画の内容の大まかな抜粋
― 1862年にヨーロッパへの使節派遣に幕府雇われで同行する。
― パリに到着するとホテルマンに一行の数を聞かれ、40人だと答えると「その程度の人数なら、一軒のホテルにその10倍から20倍の人数を収容できます」と言われるもその意味がわからなかった
― 着いてみると彼の言ったことは冗談ではなく、ホテルは5階建てで600の部屋があり、500人以上の従業員がいる巨大な建物だった。
― たくさんのホールや廊下があるので迷ってしまうのが心配だった
― 食堂には山の幸・海の幸が並べられていて、異国嫌いのものでも手をつけずにはいられなかっただろう。
― 食べ物の量がものすごいので、無駄になった日本から持ってきた米や道具は接待係の下役にすべてタダであげてしまった
― 日本では身分の高い者がトイレに行く場合は、家来がトイレのドアの開けたまま外で見張りをしておくのが常だが、たくさんの客が通り過ぎるこのホテルでもそれをやっているから、ドアを閉め、家来にヨーロッパは仕来たりが違うと教えてあげた。
― 滞在中、ナポレオン3世がヨーロッパで非常に有力な政治家であると知る。またプロイセンが勢力を広げ始めており日の出の新進国のようだ
― イギリスでは、ある法案を目にした。それは日本で征服者のように傲慢にふるまう在日英国大使のオールコックを弾劾する建言だった。
その証拠として、オールコックが神聖な寺の区域に馬で乗りこんだことが挙げられていた。
― オールコックの故郷であっても公平かつ心優しい人々がいると知って、外国人は皆が皆悪魔なわけではないと知った。
― イギリスには議会が存在し、平時にもかかわらず信条の異なる政党がつねに争っていることや、しかし同時に食卓を共にしたりもするということなどを理解するのには時間がかかった
ー 日本と300年の特別な関係をもつオランダの歓迎は一番だった。オランダ語を話せる者も一行には多かったので第2の故郷のようだった
―
「アムステルダムでは土地の売買が自由ですか?」
「はい」
「外国人も?」
「はい」
「では仮に広大な土地を買い、要塞を築くことを許可できるのですか?」
「・・・そのケースは考えたことがなかったですね(困惑)」
というような会話がオランダ人と日本人の間で行われて通訳が面白がっていた。
― ロシアでは外科手術を見学したが、生来ずっと血や残酷なことが苦手だったので気を失いそうになって退出した。
― 樺太における国境線の談判が行われたがまったく取り合われなかった。
― 日本で攘夷論が強くなればなるほど日本の威信や国力が落ちてしまう結果になるのではと悔しくなった。
― 接待役の一人に部屋に呼ばれ、
「日本のことをよく知らないのは承知してるが、一般論で言ってそこは小さな国で野心のある若者が大事を成すチャンスは少ないだろう。ロシアに定住しないか?」
「いや、国の仕事で来ているのでここに留まるわけにわけにはいかない」
「あなたを隠すのは簡単なことだ。誰も見つけられないだろう。ここにはどこの国の出身であっても金を稼ぐチャンスがあり金持ちになれるぞ」
という会話があり、冗談でもなんでもない真剣な口調で提案された。
― イギリス・フランス・アメリカでは、会話をしたほとんどすべての人が日本に来たいと言っていた。そしてそのたび日本での仕事を紹介してくれと頼まれてうんざりしていた。
― 自分の国に留まるように勧められたのはロシアが初めてだった。個人的な要望ではなく、なにか政治的外交的な計画性や陰謀があるのではと疑った。
― フランスで日本への帰路に就こうとしていた時、日本で生麦事件が起こり、フランス政府の態度が露骨に冷淡になった。
― 船に乗るまでの道に、儀杖兵が1キロ以上にもわたって並んでいた。そこには軍事力の誇示をしめすほのめかしがあったように感じた。
― 帰国すると日本中に攘夷感情が吹き荒れていた。何をするかわからない浪人がうろつくようになり、海外貿易に従事していた商人も突然閉店するようになった。
anonymous
”会話をしたほとんどすべての人が日本に来たいと言っていた”
こいつらweeabooの元祖だ
訳注:weeabooとは主にアニメなど日本文化に熱心な外国のひとたちを指す。蔑称よりの意味合い
anonymous
”プロイセン・・・日の出の新進国のようだ”
これ伏線
anonymous
↑このわずか数年後、プロイセンが普仏戦争でフランスを蹴散らしドイツが成立する
anonymous
”たくさんのホールや廊下があるので迷ってしまうのが心配だった”
想像してみてくれ。
ホテルの部屋で待つツレのためにコーヒーを取りに行こうとする。
すると突然、迷子になって混乱する、刀をぶら下げマゲを結わえた10人以上のサムライたちと廊下で鉢合わせる
すごい光景だったろう
anonymous
この外交官たちの物語は正直フィクションみたいだ。
これが実際の出来事だってのがすごい
anonymous
↑100年前以上前はこんな感じだったんだっていうのを教えてくれるよね
anonymous
”では仮に広大な土地を買い、要塞を築くことを許可できるのですか?”
anonymous
↑彼がそう尋ねた理由のひとつは、ヨーロッパの植民地で西洋人が土地を買って彼らの要塞を建てたからだと思う。そのことで衝突が起きたりしたんだよ
anonymous
↑当時の外国人が日本でそうしようとした時のためのアドバイスが欲しかったんじゃないかな
anonymous
この人すげえやべぇな。今まで聞いたこともなかったのが信じられん
anonymous
福沢諭吉の文章に完全に恋してしまった。彼自身すごく人間らしいうえに、歴史にも人間らしさを与えてくれてる
anonymous
↑同意。未来に生きる俺らのことを彼ならどう感じるだろうか。傾聴に値するだろう
anonymous
かれの文章をひとことで言うと「人々は素晴らしい、でも政府はウザい」
完璧にヨーロッパを説明してる
anonymous
↑正直これは世界すべての国の説明だろ
anonymous
議会のくだりが良い
このような混乱は当時の日本人の意識が反映されているね。
公でのスピーチや討論って概念は日本人にとって縁遠いものだった。
封建社会には討論は必要ないし、人は主人にひたすら従うことを要求される。
この公でのスピーチという概念を説明するために、福沢は『演説』という新しい言葉を発明しなくちゃならなかったんだ。
彼は帰国すると「西洋事情」という西洋人の生活について記した本を出版した。
この本は学術的な漢文を使用せず平民に理解できるような簡潔な書き下し文で記述されたもので、絶大な人気になったんだ
anonymous
日本人:ヨーロッパに到着。で、どこでコメが炊けるんだ?
anonymous
↑スペインなら炊けただろう
anonymous
俺はこの日本人とは友人になれただろう。うまくやっていけたはずだ
anonymous
彼は自国の文化に誇りを持ち、他者を尊重し、謙虚かつ高い意欲をもち、さらに愛国心や新しい物事を学ぼうという意欲と献身を持っている。
日本がいかにして短期間で飛躍することが出来たのか理解できるよ
anonymous
自分がどれほどこの人が愛おしいか説明するのは難しい。この人の物語とかれの物事に対する視点はおもしろい
anonymous
ロシア人はアニメ産業を興す手伝いをしてもらいたかったんよ
anonymous
この人についての映画があっていいはずだ
anonymous
いまでは諭吉は紙幣になって世界中を旅しているね
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